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キャロルのマジック [味村ノート]

ひまわり.jpg今回の味村ノートはフィボナッチ数列を使ったパズルです。暑さで疲れた脳を少しゆったりさせてください。

◇ フィボナッチ数列

[フィボナッチ数列]は、草木の枝分かれ、花びらの枚数、ひまわりやたんぽぽの種の配列、などの植物を始め、身の回りのいろいろな部分で大切な要素となっています。Web上にも多くの情報がありますし、この味村ノートでも別の機会に触れる予定です。
この数列は、F0=0, F1=1, Fn+2=Fn+Fn+1で表され、具体的には、[0, 1, 1, 2, 3, 5, 8, 13, 21, 34, 55, 89, 144, 233・・・・]と続く数列です。具体例からも分かる通り、最初の二項は0,1、以後どの項もその前の2つの項の和となります。面倒な話はされおいて、ここでは、そういった数列があることだけをご承知ください。

キャロル_01_1.jpg◇ キャロル(L.Carroll)のマジック
  1. 一辺がフィボナッチ数列のある値、例えば[8]の正方形を、その値の直前の2つのフィボナッチ数列の値、[5]と[3]とにより、右の図のように4つの部分に分ける。
  2. 次に、これらを切り離して、下の図のよう長辺[13]、短辺[5]の長方形に並べ替える。
  3. 元の正方形の面積は 8×8=64 だが、並べ替えた長方形の面積は 13×5=65 で、[1]増えている。

キャロル_01_2.jpg

キャロル_02.jpg
  1. 上例の [8]→[13]、[5]→[8]、[3]→[5]とフィボナッチ数列の値を1つずつ大きい値に置き換えると、元の正方形の面積は 13×13=169 だが、並べ替えた長方形の面積ば 21×8=168 となって、こんどは[1]減る。
  2. さて、[1]はどうして増減したのか?



・ ・ ・ 種明かしは、こちら


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並べる [味村ノート]

pncl_02.jpg ワープロを使うようになって,鉛筆で書くことが減った。 
そのせいか、半分使い古しの鉛筆が溜まっている。暇つぶしに長いものから並べながら、思いつくことを書いてみた。コンビュータ屋流にいえば、鉛筆をその属性の一つである[長さ]をキーに整列することの一考察とでもなろうか。

選んで並べる     整列手順例は→こちら
 まず、鉛筆を一列に置く。先頭を2本目から末尾まで順に比べ,相手が長ければ場所を入れ換える。同じことを、2本目は3本目から、3本目は4本目から比べ、というように末尾の1本までやると、鉛筆の長さの降順に配列できる。未整列の中から、最長のものを選んで、次々に並べていくわけだ。

 比べる手数は、はじめ全数より1だけ少ない回数だが,どんどん減っていく、しかし、全部の手数は、鉛筆の本数を n として n2 に比例する。そこで、この方法は2乗時間だと呼ばれる。入れ換える手数も同様になる。整列アルゴリズムでは[挿入ソート]と呼ばれる。

探して並べる     整列手順例は→こちら  
 ある鉛筆に着目し、これと先頭よりの隣とを比べて相手より長ければ入れ換えることを先頭に向かって進める。隣が長くなったら止めて、いま着目した次の鉛筆で同じことをやる。これを2本目から末尾まで順にやれば、降順に整列できる。整列済みの中に並ぶべき境所を探して、そこへ入れていくわけだ。

 比べる手数は、はじめ1回だが、どんどん増える.毎度先頭まで比べるとは限らないが、平均でその半分くらいにはなろう。手数の合計はやはり n2 に比例するから、これも2乗時間だ。入れ換える手数も同様になる。鉛筆を縦に並べてやると、長さに応じた場所まで泡の立つように鉛筆が昇っていくから,[泡立ち整列(バブルソート)]という。

交ぜて並べる     整列手順例は→こちら  
 鉛筆を幾つか群に分割する。必要に応じて鉛筆の長さを比較しやすい小さい群(最小は要素数1)までさらに分割する。分割後の併合(マージ)は対応する分割列を先頭から比べ,長い方から新しい第3の配列に置く。どちらか一方の分割列が全て終わると,他方の分割列の残りはそのまま第3の配列の後に並べる。次の対応分割列も同様にして、新しい第4の配列を作る。これを繰り返し、一つの降順に整列した配列に併合する。

 [2ウェイ・マージ]と呼ばれる方法だ。比べる手数も入れ換える手数も n log2 n に比例する。筆書は,答案を学生番号順に揃えるときなどに重宝している。

分けて並べる     整列手順例は→こちら 
先頭から順に,末尾と比べて短い鉛筆がある場所を探す。次に,末尾の一つ手前からから逆順に、末尾と比べて長い鉛筆がある場所を探す。両場所の鉛筆を入れ換えて、さらに両方向に進める。ぷつかった所で先頭から探した短い鉛筆と末尾と入れ換える。そうすると、そこに置いた鉛筆より長いものが先頭からそこまでに、また短いものがそこから末尾までに、それぞれ分けられたことになる。同じことを、そこを除いた前半分と後半分とについてやる。こむつかしくいうと、再帰的に実行する。ついには、分けた部分の鉛筆がただ1本ずつになり降順に整列できる。

 [区分化整列]とか[クイックソート]と呼ばれるが,気の利いたプログラミングの本などでちょくちょく出会うものだ。比べる手数は n log2 n に比例し、入れ換える手数はこれより少なくて済むという。

エイヤッと並べる     整列手順例は→こちら 
最後に、いささか変わった方法を紹介する。
鉛筆の束を片手でゆる目に握り、これを机の上に真直にエイヤッと立てる。一番背の高いものから順に抜きとって並べる。束がなくなるまでやって,降順の整列が完了だ。配列の最小値(最大値)を持つ要素を探してそれを配列の先頭要素と交換することで整列を行う[選択ソート]のアルゴリズムの一種だろう。

 比べる手数はエイヤッの1回、並べる手数は n に比例するから、この方法は線形時間ということになる。前出の2乗時間はいうに及ばず、n log2 n と比べても格段に差がある。こういうものを「ツポにはまった小道具」つまり「ガジェット(gad-get)」というのだそうだ。

 ついでに、平行でない2本のレールの狭い方を高く広い方を低く置く。鉛筆を上から転がせば、長さがレールの間隔に等しくなった所で鉛筆は落ちる。レールの下には、鉛筆が自然に整列する。アメリカで,オレンジの選別に実用しているという。

   本稿は次の文献を参考にした
   遊びの発想 別冊サイエンス82(1987)  A.K.デュードニー著,山崎秀記監修
  
[目]

[ソート]機能は日常に利用していますが、その[アルゴリズム]を意識してみるとなかなか面白いものがあります。今回この[味村ノート_並べる]をアップするに当たって、私や周りもずいぶん楽しみました。[ソート]の手順を考えることは、中学生、場合によっては小学生から学生、大人まで[アルゴリズム]を理解するによい材料だと感じます。
[アルゴリズム]は数学やコンピュータでの[算法]のみならず、その概念は[問題解決]のための[手順][やり方][技法]として、いろいろな分野・シーンで参考になりますね。

整列手順例
  上記本文にほぼ対応した[整列手順例]を付加しました。→こちら
アニメーション
  本文の手順方式には沿っていませんが、
  実に愉快な動画コンテンツがありましたので、併せてご紹介します。
  日本語のコンテンツがあまり見当たらず寂しいのですが・・・。
  

つづき→ソートアルゴリズムの動画 コンテンツリスト


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緩急よろしきを得る [味村ノート]

書き出し□□には、[徒然草]を読むだろう、ご自身のシーンを当て嵌めてください。


緩急S.jpg □□□□□□□□□□□□□□、『徒然草』としゃれてみた. その49段に,
「速にすべき事を緩くし,緩くすべきことを急ぎて,過ぎにしことの悔しきなり.その時悔ゆとも,かひあらんや」とある.

 いやなことは,早く解決すべきであるのに,つい1日,2日とあとに回わしたくなる.しかも,遅れるほど,話はこじれるものである.どうでもよいことは,気が楽だから,先に片付けてしまう.

 電話にするか,手紙にするか.自分で行くか,とりあえず誰かに行かせるか.上長と相談してからにするか,自分で決断するか….これらが緩急よろしきを得ないと,毎日の仕事がうまく運ばないのである.

 いまの世の中も,60年代に緩急を取り違えた結果といえないこともなかろう.だからといって,いまそれを後悔しても仕方がない.むしろいまこそ,速やかにすべき事と緩くすべき事を見きわめて,その時に悔いのないようにしたいものである.


[目]

「モノ不足,エネルギー不足に,南の日だまりで『徒然草』としゃれてみた.」
原文の書き出しです。1974年オイルショック頃に書かれた一文でしょうか。

緩急を取り違えると、どうも拙いことが起きることは歴史が示しています。このところ、個人の大事、国の瑣事、いずれを見ても緩急の取り違えが多く、不安ばかりで困ります。兼好の言うような[仏道]は無理ですが、せめて[人道]を、今からでも心して生きたいところです。


[いす]
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〇 イラストは下記URLよりフリーイラストを使わせていただきました。
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漱石の個人主義 [味村ノート]

 世紀末と片付けたくはないが、大地震、大殺戮、オウムと名乗る大ムジナと物情騒然のさなか、4月初めに左足首骨折の憂き目に遭い、暫くは入院の被目となった。無聊の慰めにと、折よく配本の漱古全集第16巻で『私の個人主義』を久し振りに読み直した。
 これは、大正3(1914)年11月25日午後3時から学習院輔仁会で行った講演で、時に漱石は48歳、世を去る2年前のことである。実施に至るいきさつが冒頭で語られるが、荒正人『漱石研究年表』(集英社、1974)なども参考に、あらましは次のようである。

 大正3年春、学習院弁論部長・岡田正之から講演依頼があり、漱石は10月なら「日数を大体繰って見て、それ丈の時間があれば何うにか出来るだらう」と受け合う。ところが、9月になり、4度目の胃潰瘍のため1箇月程病臥する。10月4日、岡田が雨の中を「長靴を穿いて」再交渉に来たので、11月25日で承諾する。10月末やっと全快するが「まだ一ケ月も余裕がある」と「横着な料簡を起こして、ずるずるべつたりに其日其日を送」る。「二三目前になって、何か考へなければならないといふ気」にな一るが「考へるのは不愉快なので、とうとう絵を画いて暮らしして仕舞」う。漱石とて人の世の常で、結局「今朝少し考を纏めて見ました」という仕儀になる。

 これに続いて、落語「目黒の秋刀魚」を引き合いに「此学習院といふ立派な学校で、立派な先生に始終接してゐる諸君が、わざわざ私のやうなものの講演を、春から秋の末迄待つても御聞きにならうといふのは、丁度大牢の美味(立派なご馳走:筆者注)に飽いた結果、目黒の秋刀魚が一寸味はつて見たくなつたのではないか」「珍しいから、一口食つて見ようといふ料簡ぢやないか」「他所の人が珍しく見えるのではありますまいか」と盛んに畳み掛ける。荊妻も含めて世の漱石フアンの顰蹙(ひんしゅく)は百も承知で、この皮肉の連発はちと厭味が過ぎるようだが、どうだろうか。

 英国留学に至るまでの経歴に続いて、ロンドンの下宿の一間で「他人本位」は駄目だということに気付いたと、話は核心に触れてくる。他人本位とは「自分の酒を人に飲んで貰つて、後から其品評を聴いて、それを理が非でもさうだとして仕舞ふ所謂人真似」と断じて、それが「無暗に片仮名を並べて人に吹聴して得意がつた男が比々皆是なりと云ひたい位ごろごろして」いるわけだという。
80年も経つが世の中は変わらないものだと思う。

 淑石は「普通の学者は単に文学と科学とを混同して、甲の国民に気に入るものは屹度(きっと)乙の国民の賞讃を得るに極つてゐる、さうした必然性が含まれてゐると誤解してかゝる。其所が間違つてゐる」という。大方の評論は、当時「進化論」を社会や文化に適用した「社会進化論」に対する批判と受け取っている。自然科学は普遍という常識の範囲ではその通りだろうが、その常識もそれ程牢固としたものとは筆者に見えない。「文学も科学も」とした方が現代的かも知れない。
 ともあれ、漱石は「自己本位といふ四字」に到達し「多年の間懊悩した結果漸く鶴嘴をがちりと鉱脈に堀当てた」のである。

 講演の前半部、漱石のいう「此講演の第一篇」はここまでで、後半の「第二篇」に移るわけだが、後半の「自己本位」の実践論は、またの機会に繰り延べたい。


image_02m.jpg[目]

冒頭書き出しで、「えっ」と思われたかもしれませんが、本文は1995年に掲載されたものを一部編集し転載したものです。本文に言う[80年]に、さらに20年がたち、世の中はどう変わったでしょか?
「自己本位」「則天去私」。漱石が他界した年齢を過ぎましたが、「う~む 分からん」というより「できん」という毎日を過ごしています。



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漱石の開化論 [味村ノート]

object.jpg 漱石は明治44年(1911)8月15日午後1時から、和歌山県会議事堂で「現代日本の開化」と題して講演している。日記には「縣會議事堂は蒸し熱い事夥し」とある。講演は「開化」を当世風に「文化」とか「文明」とでも読み替えれば、そっくり現代に通じる新鮮さに満ちている。

◇ 労力の節約と勢力の消費
 この中で「開化は人間活力の発現の経路」と定義して「根本的に性質の異なった二種類の活動」を認めている。一つは「出来るだけ労力を節約したいと云う願望から出て来る種々の発明とか器械力とか云う方面」で、いってみれば科学技術である。もう一つは「出来るだけ気儘に勢力を費したいと云う娯楽の方面」で、いってみれば文学・美術・音楽・演劇などの文芸である。そして「是が経となり緯となり千変万化錯綜して現今の様に混乱した開化と云う不可思議な現象が出来る」としている。

 漱石は、前者が消極的で後者が積極的だという。いささか常識とは逆に聞こえるが、人間活力の発現上積極的とは「勢力の消耗を意味する」から後者が積極的になる。これに対して、前者は「勢力の消耗を出来る丈防ごうとする活動なり工夫なりだから」消極的になるというわけである。

◇ ユニバーサルとパーソナル
 漱石は、東京高等工業学校(蔵前高工と呼ばれた東工大の前身)の十数回にわたる講演依頼を断り続けたが、遂に「根くらべで根がつきて」大正3年(1914)1月17日に同校で講演する。演題は「無題」だが、同校校友会雑誌掲載の略記を読むと、前出の「開化論」を踏まえた技術と文芸との差異を説いたものといえる。

 技術は「活力節約の行動と云ってenergyを節約せんとする吾人の努力」である。一方、文芸は「活力を消耗せんとする趣向、即ちconsumption of energy(消費エネルギー量)」である。
技術は「普遍的即ちuniversalの性質」を持っている。「universalと云うことはpersonalityと云う個人としての人格じゃなく、personalityをeliminate(除去)し得る仕事」である。だから「電車の軌道は誰が敷いたかと考える必要はない。」「是には何のpersonalityもない。即ち自然の法則をapply(適用)した丈」である。

 しかし「芸術家のものでは、誰が作ったと云うことがじきに問題になる。」文芸は「personalの性質」を持つからである。したがって、文芸では自己に重きを置かなくてはならず、自己がなくなれば芸術は駄目になる。

 長文の極々一部だから誤解を招くことを恐れるが、漱石の論議は現代文明の側面を痛烈に突いているように思う。


[目]

ソフトウエアやプログラミングは本来ユニバーサルであるはずですが、普遍性の面では、少し(だいぶ)問題がある場合が少なくありません。もちろんソフトウエアやプログラミングは美的であることが機能性に結びつくことが少なくありませんが、それが芸術、すなわち制作した人の意図を考えねばならないのでは困ってしまいます。
「漱石の開化論」今の時代のいろいろな場面に置き換えてみると、ニヤッとしてしまいそうなことが多々ありそうです。

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〇 本文中の abc(訳語)の訳語部分は原文にはなく、GPA Talksのお節介です。
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情報のクオリティ時代 [味村ノート]

◇ 情報を選び出す情報

 ひと昔前なら,書店で 「こんな本が欲しい」 といえば,即座に 「こんなところでどうでしょう,これは薄いがよくまとめてある,これはしかじかについて詳しい」 などと教えてもらえた.いまは様子がいささか違う. 「あのコーナーでも探してみれば」 とくれば上出来で,たいていは 「さあ」 だ.何とか苦心して数冊を選び 「さて,どれがよかろうか」 とたずねても 「自分できめて欲しい」 だ.しょうことなしに,まえがき,あとがき,日次などに目を通す.パラパラとぺ-ジをめくる.思い余って,オビの惹句や表紙のデザインを眺める.そして,何となく自分で納得した気分にして,選ぶほかはない.

 書店は本を仕入れて売るもので,いちいち本の内容にまで立入ることはない. 「どれにするか」 は,本来,買う側できめるものだ.こういってしまえばそれまでだが,何とも味気も俗気もない.だからといって,店員に商品知識がない,客に不親切だ,サービスが悪いなどと,一方的に非難するのは酷だろう.ビルー軒がまるまる書店になる時代だ.いまのおびただしい出版状況を考えると,内容を知るどころか,標題を見て何とかつじつまの合ったコーナーに並べるだけで,書店は精いっぱいだろう.本によっては,いったいどこに分類してよいのか,計りかねるものさえある.

 多種多様の出版は,多種多様の情報提供を意味する.だからたいていの情報ニーズにピタリ当てはまるものはあるのだろうと思う.けれども,それがどこにあり,どれであるかを見つけようとすると,ハタと困る.そのための情報がないからだ.従前は,これが書店によって提供されていた.それが,いまははとんど期待できない.

情報クオリティS.jpg 欲しい情報は山ほどある.しかし,そのなかから目指す情報を選定するための情報がない.結局は,欲しい情報を手に入れることができない. 「情報あっで情報足らず」 というわけだ.

◇ 目的に添った情報

 スーパー・マーケットなどへ行くと,おびただしい食品が並んでいる.そして,それらには組成,保存料や着色料の使用の有無,製造年月日など,事細かに表示されている.これらを読めば,品定めは合理的に科学的にできるように見える.けれども 「この陽気に,あすまで大丈夫だろうか」 となると,すぐにはわからない.ましてや 「いまの時節に,どう調理したらうまいか」 ともなれば,これはもうお手上げだ.たずねるにも相手はいないし,レジ嬢に聞いてわかる話でもなさそうだ.

 従前は,そんな表示はなかった.必要なら店に聞けば 「こうすれば大丈夫」 から 「こう調理したらうまい」 まで,いろいろとアドバイスがもらえた.もっとも店の思い違いやいい加減な調子でやられたのでは,危険千万だ.しかし,そこはよくしたもので,店の信用,商売道徳がそうはさせない.

 判断の基本となる情報を科学的に表示すれば,それらを組立てて 「あすまで大丈夫か」 の答は推論できよう.何も信用や道徳などというあなたまかせみたいなものに頼るまでもないだろう. 「どう調理したらうまいか」 などは,店のあずかり知らぬこと,必要なら専門家に聞くなり,専門書を読むのが本筋だろう.ごもっともな意見だ.しかし,それは理屈というものだ.買物のつど,化学の試験問題を解かされるのでは,たまったものではない.

 買物で欲しい情報は,すぐに使えるものでないと困る.なぜなら 「買う」 という意思決定が問題解決へのアプローチでなく,問題解決そのものだからだ.情報はニーズに即応して,その時その場で,すぐに使える形になって,はじめて価値がある.問題解決に必要十分な情報がいくら揃っていても,それだけではゴミの山,クズの塊にすぎない.情報は目的に添って処理されてこそ意義がある.ここでも 「情報あって情報足らず」 に出会う.

◇ 情報あって情報足らず

 ニーズに合う情報があっても,そのあり場所の情報が足りないのが,本の例だ.組立てれば問題を解決できる情報があっても,すぐに使える情報が足りないのが,食品での例だ.いずれにしても情報あって情報足らずは, 「情報のクオリティ(質)」 に関することのようだ.

 H.A.サイモソ教授(カーネギー・メロン大学)は,MIS開発の阻害要因について,次のように言及している(産業能率短期大学主催の特別講演 「情報過多社会における組織と管理」 1977,11.8より).
  • 不足しているのは情報ではない.注意力,つまり情報利用の能力だ.“もっと情報”ではない.いちばん有用な形で表現された,いちばん適切な情報,これだけをマネジメソトに提供すべきだ.
  • MISでは,たまたま企業の業績記録に利用できた情報に注意が払われすぎた.トップ・マネジメントが賢明に意思決定するためこ必要な情報には,少しも関心がなかった.
  • トップ・マネジメントが重要な情報は,企業の内部記録ではない.むしろ,企業外の情報,たとえば業界,国の内外の経済情勢,技術,社会,政治の動向だ.
  • そして,それらの多くは数字つまりクォソティティ(量)でなく,新聞や雑誌などの記事に見られる“語られた”形のものだ.
われわれは,たしかにインフォメーショソ・リッチの世界に生きている.けれども,それは量的、クオンティティにリッチなのであって,質的、クオリティにはずいぶんとプアーだといわねばなるまい.

 60年代から70年代へ,コンピュータは情報のクオンティティ処理,つまりこなすことに,一応の成果を納めたといってよいだろう.これはこれで高く評価しなければならない.しかし,クオンティティ処理だけでは,われわれの情報の問題は解決できないことがわかってきた.こなすだけでなく,目指す情報を選び,すぐに使える情報に組立てることが望まれる.情報のクオリティ処理だ.しかし,これはやっと歩きはじめたところだ.

 80年代,それは情報のクオリティ時代への開幕だろう.そして,そこから情報化社会へのさらなる一歩が踏み出されるだろう.われわれは,それを期待し,そのためにしたたかな努力を傾けねばなるまい.

情報クオリティ2MS.jpg [目]

今回の味村ノートは、まだまだ書籍出版業界が右肩上がりだった80年代の原稿です。それから30年前後の月日がたち、情報は書籍・新聞などのアナログからインターネットの普及もありデジタルに主力を移しました。情報のデジタル化もあり、その情報量の膨大化は止むことを知りません。ますますひどくなるばかりの情報洪水をうけ、求むべき情報を手にできず、右往左往している毎日です。


[いす]
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システム設計の空白 [味村ノート]

今回の味村ノートは、1978年に某誌に掲載された「システム設計の空白」から抜粋・一部編集したものです。三十数年前に比べ「今や、エンド・ユーザ・ニーズの取込みは格段に改善されている」・・・と、言えるでしょうか。

信号.jpg
◇ 交差点でのエンド・ユーザ・ニーズ
 交差点がある.信号が赤なら止まらねばならない.青なら渡ってもよい.人も車もこのルールを守っている限り,まずは交差点は安全だ.しかし,このルールは「しつけ」であっても「しかけ」になっていない.赤でも渡れぬことはない.ただ,人は車に比べて弱い存在だ.ルールの無視には体を張らねばならない.反対に,車は人に対してめっぽう強い.だから,ときたま人に対してぶしつけな車が現われることがある.これに対して,人の安全を何とか守るには,人と車とを別系統で渡らせることが考えられる.つまり,歩道橋だ.人は車を見下ろしながら交差点の上を渡る.弱者にとって何がしかの優越感もあり気分も悪くはなかろう.かくして,人と車との交差点での問題は一見解決したかに見える.

 ところが,そうは問屋は卸さない.当初はともかく,しばらくたつと必ず苦情が続出する.いったいなぜ人が車のために階段を昇り降りしなけれはならないのか.老人,子供,ましてや車イスの人たちにとっては,耐えられたものではない.タテマエは人のためと言ってはいるが,ホンネは車のためではないか.
 原因は,交差点を利用する人たち,つまりエンド・ユーザのニーズの取込みが不十分だったからだ.このたぐいのことは,コンピュータを中核とする情報システムでも例外でない.

◇ 本質的で先を見通したニーズ把握か
 情報システムの構築で正しいシステム設計には,エンド・ユーザ・ニーズの取込みが第1要件だ.そして,これはシステム開発の第1段階であるシステム構想で実施される.システム構想とは,ニーズをはっきりしたカタチで把捉すること(formulation)だ.目的を明確化してシステムを限定することだ.

 システムが現状に立脚した一部変更や延長であるときは,これは比較的うまくいくだろう.しかし,エンド・ユーザはニーズをそのときの,また自己だけの,期待ないし願望というカタチでしか提示しないことが多い.だから,ひとつの観点からよかれと思ってやったことでも,他の観点からは必ずしもそうとはならない.また,当初は確かにそれでよくても,使っている間にニーズが変わり,不都合になることもある.
ニーズ.jpg これをユーザの勝手だときめつけてはならない.理由がどうだろうが,そこまで見通せなかったことは,システム設計者として敗北だ.いまだけでなく,先々どうなるかまで見通さねばならない.見通せる力量が不足しているならば,気付いた時点ですみやかに修正するにやぶさかであってはならない.

◇ ホンネのニーズ取り込みはシステム設計の空白部
 ニーズの取込みは,日本ではさらに厄介だ.日本人は公式の場でタテマエのニーズしか提示しないからだ.リゾート・ホテルに連込み,カジュアルウェアを着せ,うまく誘導すれは,ホンネが出るなどと考えている向きもあるが,実に甘い.
 タテマエのニーズを取り込んだシステムでは,当初,タテマエ上やむなくよいということで忍耐していても,次第にホンネが出てくる.そこで文句でも出ようならまだ救いがある.多くは「使い勝手の悪いシステムだ」とあきらめのカタチにしかならないものだ.

 システム設計でエンド・ユーザ・ニーズの取込みは要件分析(requirement analysis)などと呼ばれる.その重要性は古くから認識されてきた.しかし,方法論となると,いささか概念的,抽象的,思いつき的で,具体性に乏しいと言わざるをえない.とりわけ,タテマエが支配的な日本では,欧米社会を対象とした方法論はほとんど功を奏しないようだ.
 やや極論になるが,現在のシステム設計は,要件分析が済み,ニーズの取込みが成功してからのものと言えそうだ.つまり,要件分析はシステム設計の空白部として残されたままになっているというわけだ.                                         
◇ シードがニードを追いやる現状
 システム開発の効率化をめざし,多くの技法が発表されている.しかし,この空白を避けては,問題の解決とはならないだろう.ニーズの取込みが不十分なまま,特にタテマエとしてのまま,その他の部分でどんなに効率的に実施されようとも,完成したシステムは早晩無用の長物と化することは明白だからだ.

 しかも,この空白は現状ではますます拡大する危険がある.それは,コンピュータが作る側と使う側に分化し,作る側はハードウェアとソフトウェアとに,使う側はデータ処理部門とエンド・ユーザとに,さらに分化してきたことだ.分化は,往々にして他人のニードを無視し,自己が関心を寄せるシード中心となるものだ.
 データ処理部門が専門化し,より高度なデータ処理技術に関心が移ると,彼らはテクニカル・スペシャリストに変身し,自己のテクニカル・シードからのみ導き出したシステムの実現に熱中する.彼らは自己の欲望達成のためにエンド・ユーザ・ニーズを強引に合わせようとするばかりか,それが困難と見られるやテクニカル・タームの連発でエンド・ユーザの参加をしめ出そうとする.

◇ 空白を埋めるコミュニケーション
 トップ・マネジメントも,データ処理部門はコストの急増する機能であり,これを理解し,統制することは不可能ではないかと思うようになる.こうなると,トップ・マネジメントとエンド・ユーザとデータ処理部門との間には,満足すべきコミュニケーションが欠落し,相互信頼に隙間が目立ってくる.不幸にも,多くのデータ処理部門は,いま,これらの問題に直面しつつあるようだ. 
コミュニケーション.jpg
 なさねばならぬことは明白だ.まず,相互信頼を築けるコミュニケーションの回復であり,次にこれを足場としてエンド・ユーザ・ニーズの取込みという空白を埋めることだ.これらの成功,それが効果的システム開発へのパスポートとなるに違いない.

[目]

本文から三十数年たった現在、E-Mailが多用される中、コミュニケーションの量は部門内外に関わらず膨大になっています。しかし、「メール文面をまともに読まず勝手な理解をしている」「何が言いたいのかがメール文面では理解不能」・・等々の場面にもよく出会います。ITの一般化でコミュニケーションの量は増大しましたが、質の向上、本文で指摘されている信頼を築くコミュニケーションには、新たな力量・センスがもとめられそうです。


[いす]
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モノ書き術 [味村ノート]

マニュアルは,ともかくそれによって行動すれば,ある目的が一応達せられるものであろう.旧聞であるが,太平洋戦争当時,B29の操縦マニュアルは,自動車を運転できる人なら,読めば完全に飛ばせるようになっていたという.マニュアルが小説や週間誌の興味記事と違うことは心得ている.だからといって,無味乾燥でも致し方ない,正確でくわしければよいというわけにはならない.マニュアルを念頭に置き「モノ書き術」を考えてみる.

構想1_S.jpg◇ 書くための構想 

① 全体を見通した構想
 何事も全体を見通した構想が肝心である.モノを書くときも同様である.テーマとそれを展開する広さのかねあいを考えねばならない.字数とか長さといわず,広さといった点に注意してほしい.書いた結果は,テープ上に長々と一次元で展開されるわけではない。1ページずつの平面に表現される.そこには図も表もある.文字にも大小がある.これらは長さではない.広さとして把握すべきである.

② リズムに乗ったキーワードで構想展開
 構想は頭のなかだけでアレコレやっても,展開もせずまとまりもしない.展開には,キーワードを思いつくまま並べることが手っ取り早い.このとき,あるリズムが必要である.リズムが狂うと,展開があらぬ方向へ行ったり,止まったりする.文章のための書き言葉を探していては,このリズムが狂う.そこで,頭に浮かぷ言葉,つまりキーワードを思いつくまま,リズムに乗って並べるのである.

③ キーワード全体を俯瞰する
 キーワードは,ひと目で見渡せる広さの白紙に書くのがよい.ひと目とは,体や頑を動かさないで,限球だけを動かして見渡せる広さである.変にマス目や線があるのはよくない.このために,キーワードのまとまりが切れては何もならない.また,キーワード間の関連がわかるように書くことである.一次元的に目でスキャンさせずに,二次元的にパターンとしてとらえることが必要である.

④ キーワードをグループ化してインデックスに
 キーワードの展開が終わると,グループにして目次案を作る.章から節,節から小節,さらに内容のコメントというようにする.途中で,章や節の入れ換え,内容の追加,削除,変更などが起るのは当然である.これは,展開する広さを考えて,その中で相手に読ませるための努力である.労を惜しんではならない.
 このとき,第三者を介入させてレビューすることを推す向きがある.悪くはないが,すべてを第三者に頼ってはならない.書くのは当事者である.

⑤ 図表もキーワード
 モノを書くことには,図や表を含んでいる.これらについても書きたいことは多くあるが,ここでは触れない.
ただ,図は写真と機能的に異なり,図を写真で代用できないことをいっておきたい.また,文章を書く前に,図や表を作り,写真を撮っておくことがのぞましい.これらは構想の展開にキーワードと共に並べて有効である.


読ませる文章
読ませる_S.jpg
 「オペレーティング・システムは,エグゼクティブの下に,ランゲージ・プロセッサ,ユーティリティ・プログラム,アプリケーション・パッケージ,ユーザ・プログラムより構成される」
 典型的なマニュアルの文章である.カナがほとんどであり,したがって切れ目まで息がつけないほど長い.この調子で,使う順序でなく作った順序で書き立てられる.使う側は,これを使う順序に焼直して読む.これではとても耐えられたものではない。

 外来語を無雑作にカナで置き換える現象は,戦後の新聞雑誌や広告に共通することである.新しい日本語として受け取るべきだとの意見もある.現代人にとっては,そんなに抵抗がないのかもしれない.明治の初め,すべてが外来語であったものを,先人はあれほど日本語にした.これを考えると,単に時代の差では割切れないものがある.辞書の訳語の最初のものを機械的に組合わせたものや屁理屈の語呂合わせなどの訳語では困る.十二分に消化した訳語が欲しいものである.学識経験者の努力を期待したい.

 つぎの表は,文章でも読ませる作品の書き出しを,文の字数(読点までの長さ)で示したものである.
作家(作品名)  文の字数(出現の順) 平均字数/文
夏目漱石(草枕) 13,9,10,9,12,22,27 16.0
志賀直哉(城の崎にて) 41,44,40,24 38.5
川端康成(雪国) 20,9,11,27,10,31,42 21.4

 先にあげたマニュアルの文例に比べて,長さは半分以下である.作者の意図や情景の描写が,短いハギレのよい文章で,つぎつぎと展開されていることがわかる.

 読ませる文章を書く基本は,簡潔に書くことである.文句をいわずに,一文を短くする.1行20字詰の原稿用紙ならば,2~3行で「。」をつける.やってみればわかるが,これは大変苦しいことである.

 短く書くためこ,手っ取り早い方法は,つぎの2つを意識的に実行することである.
ⅰ 形容詞や副詞をやめること
広告に多いが,「広い適用性」,「高い信頼性」,「すぐれたソフトウエア」などの「広い」,「高い」,「すぐれた」をやめる.また「大きい容量」などは定量的に書く.
ⅱ 接続詞をやめること
「‥…であるが,‥…」,「‥…である.しかし,……」などは,「……である.‥…」とする.また,段落のはじめの「さて」,「ところで」などは不必要である.それは,自分の無能さに困り果てたタメ息以外の何ものでもない.
 と,ここまで書いた.果たしてこの文章がそのようになっているか,これは読者諸氏に検討していただきたい.なっていなかったら,「言うは易く,行なうは難し」の証明をしたことになる.


[目]

今回の味村ノートは30年ほど前の一文です。某誌に連載されていた「モノ書き術入門」と題された中から一部を編集しています。文責はGPA Talksにあります。

今はパソコンで原稿を書くためか、直接に文章を書き始めてしまい、キーワードによる全体構成のステップを省いてしまうことが少なくありません。そのためばかりではないでしょうが、構成が悪く、何が言いたいのか分らない悪文が目につくそうです。私自身も、近頃はついついキーワード構成をじっくり練るプロセスを飛ばしてしまうことが多くなりました。マニュアルや技術文書は言うに及ばず日常のプレゼン資料でも、きちんとコンセプトマップを作成すれば良いのでしょうが、億劫になってしまいます。すっかり起動されなくなった、[CMapTool]をまたいじってみようかな。
cmap2.jpg
  [CMapTool]本家?はこちら
   http://cmap.ihmc.us/
  日本語の説明が少しありダウンロードできます。
   http://cmaptools.softonic.jp/
      リンク確認2014年5月

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なるほど!ザ・タマゴ [味村ノート]

 コロンブスがアメリカを発見して帰った時,イスパニヤ人の喜んだことは非常なものでした.一日祝賀会の席上で,人々が代る代る立って,コロンブスの成功を祝しますと,一人の男が,「大洋を西へ西へと航海して,陸地に出あったのが,それ程の手がらだったろうか.」と言って冷笑しました.これを聞いたコロソブスは,つと立って,食卓のゆで卵を取り,「諸君,試みに此の卵を食卓に立ててごらんなさい.」と言ひました.人々は,何のためにこんな事を言ひ出したかと思ひながら,やってみましたが,もとより立たうはずはございません.この時コロンブスは,こつんと卵の端を食卓に打ちつけ,何の苦もなく立てて申しました.「諸君,これも人のした後では,何のざうさもない事でございませう.」

 「コロンブスの卵」(小学国語読本巻八の第二十二)の全文だが,昭和ヒトケタ世代にはなつかしい話だ.文面ではゆで卵だが,生卵でも尻の方,つまり丸味のある方を軽くつぶして立てることができる.ここに気室があるからだ.机の上に塩を少々まくと,つぶさなくても生卵は立てられるという.
 生卵かゆで卵かは,割れば一目瞭然だが,何とも芸がない.エレガソトには,回せばわかる.ゆで卵は勢いよく回るが,生卵はそうは回らない.中身が液状で,慣性抵抗があるからだ.その代り,回っている生卵は,指でちょっと止めて,すぐに離すと,再びゆっくり回り出す.ゆで卵を横に回すと,自然に立ってくるが,これは「逆立ちゴマ」の原理によるためという.

 ここで問題-.生卵を割らずに1メートル落すには? 正解は,1メートル10センチの高さから落せばよい.少なくとも地上から10センチまでは,そのままだ(「からだひらめき思考,PartⅣ」別冊サイエンス).

卵が先かニワトリが先か」をはじめ,卵に関することわざやたとえ話の類は,ずいぶんとある.
 昔,子思という人が衛の国主に「苟変(こうへん)は将の才がある」といったところ,国主は「それはよく知っているが,彼は役人時代,人民から卵2個を徴収したから,将に採用しないのだ」と答えた.そこで,子思は「聖人が人を用いるのは,匠が木を用いるようなものだ.長所を取り短所を棄てるべきだ.杷梓(きし),つまりかわやなぎやあずさのような良材に数尺の朽ちた部分があっても,良工は棄てない.いま爪牙(そうが)の士,つまり君主を助け守る人材を選ばうとするとき『二卵を以て干域の将を棄つ』.隣国に聞かせたくない話だ」といった.国主は再拝して,この教えを受けたという.
 資治通鑑の話だが「二卵を以て……」とは,過去のわずかの欠点をとがめ立てて,あたら有為の人材を失うことの[たとえだ.「すると,元首相某氏を政界から追放するのも二卵を以て‥‥‥」と考えると,これは「卵を見て時夜(じや)を求む」ことになる.
累卵人60M.jpg
 「卵を見て時夜を求む」荘士の斉物論篇に「見卵而求時夜,見彈而求鴞炙」[卵を見て時夜を求め,弾(だん)を見て鴞灸(きょうしゃ)を求む]とある.ニワトリの卵を見ただけで時を告げさせたいと思い,鳥を射つ弾を見ただけで焼き鳥(鴞灸)を欲しがるの意で,物事の順序を考えずに大早計することをいう.
「卵を見て・…‥」が横行するようでは,世の中「累卵の危」だ.つまり,こわれやすい卵を積重ねて,いつくずれるかわからない危険千万というわけだ.「卵を渡る」も同じような意だ.

 ここで問題-.「累卵の危」「卵を渡る」を英語では? 正解は,tread upon eggs で,文字どおり卵を踏みつぶすという.続いてもう一問.teach my grandmother to suck eggs に当る日本語のことわざは?正解は,卵と関係はないが「釈迦に説法」だ(川省堂カレッジクラウソ英和辞典).

 「卵に目鼻」、丸ぽちゃで色白でカワユーイ顔をいう.世の中にありそうもないことは「卵の四角と女郎の誠」.昔から,卵は丸いものと相場がきまっている.だが,円でもなければ楕円でもない.つまり,卵形(たまごなり)だ.かのデカルトも,この卵形に魅せられたようで「卵のような楕円曲線」を表現する公式を発見したという.

 糸と鉛筆とで円を描くには,糸の一端を固定し(ここが中心),他端を鉛筆に結び,糸をピソと張ってグルリと描けばよい.楕円ならば糸をだぶつかせて両端を固定し(ここが焦点),糸を鉛筆でピソと張って描けばできる.糸の両端を(A)と(B),鉛筆の芯を(P)とすると,PA+PB=一定となるPの軌跡が楕円というわけだ.

 卵形は,これらの応用で描ける.円のときと同じように糸の一端を固定(A),他端を鉛筆に結ぶが,糸を別の一点(B)に引掛けて折返し、糸(AB)上に任意点(C=P)を置く,鉛筆の芯を(P=C)として楕円と同じ具合に描けばできる.つまり,卵形はPA+2PB=一定となるPの軌跡というわけだ.
デカルト卵形M160.jpg


 過日,宇都宮に所用があり,上野駅へ行った.発車までの時間つぶしにホームをぶらついていると,キオスクでゆで卵が目にとまった.例の網袋に入ったヤツだ.久振りでもあり買ってみた.穀を始末する紙袋に「塩入り」とあるが,塩が見当らない.取換えてもらおうとしたら,発車ベルだ.ツイてないわいと,殻をむきロに入れて驚いた.ナント中身が塩味になっている.なるほど,間違いなく「塩入り」で,看板に偽りなしだ.いったい,どうして作るものやら,ご存知の方はぜひ教えていただきたい.実は,この「タマタマ卵を買ってマゴマゴした」のが本稿を書くきっかけというわけだ.念のため「タマゴ」の末尾を捨ててタマタマ,頭を切ってマゴマゴと洒落たつもりだ.

 ここで最後の問題-!.ならば,卵の胴中を抜いたら? 正解は「マヌケ」.これは,いささかはしゃぎ過ぎかも知れぬ.お気に障った節は,平にご容赦.


[本]
文中の卵形曲線、デカルトの卵形線[ mPA+nPB=一定 m=1 n=2 ]を描く時は、コルクボードとピン(画鋲)があると描きやすいです。鉛筆さばきに少しコツがいるかもしれません。[ m=n ]だと楕円になってしまいます。次の三点による方法も、三点の取り方(ピンの置き方)によって卵になったりおむすびになったり、ちょっと楽しめます。(GPA Talks)
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  Portrait of the Artist as a Big Loser:Robert Dickau
   http://www.robertdickau.com
   URLリンク確認は2014年5月



[目]

今回の[味村ノート]は「なるほど!ザ・ワールド」が放映(1981~1996)されていた頃の一文でしょうか。
[元首相某氏]はさておいても、「二卵を以て……」は、日本のマスコミの得意技かと思うほどです。最近は、マスコミばかりではないのかもしれません。若さ故の[雑さ][勇み足]は、失敗を招かないうちに諭すのが、年長者の大切な役割の一つです。杜撰なチェックや体制で済ませておきながら、後になって、自己弁護と保身のためか、若い人のミスや雑さをあげつらうのは、年甲斐もなく無様に感じます。[一流の化学者 = 一流の人間]であるとは露ほども思いませんが、テレビで会見を見ていると、何とも情けない限りです。キリストですら死の殻を破って復活(イースタ)したといいますから、「卵に目鼻」のかわいいお嬢さんにも頑張ってほしいですね。

ちなみに塩味つきゆで卵は、卵をゆでた後、濃い(飽和)食塩水に長めの時間(数時間程度)漬けるのだそうです。浸透圧の原理で塩水が卵に移動していくのでしょうが、ご家庭でもできそうです。


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わがクオリティ・ライフ [味村ノート]

新聞.jpg 現代人は,朝夕の通勤電車でも,出張時の新幹線や飛行機でも,寸暇を惜しんで活字を見るようだ.活字は新聞,週刊誌のたぐいから小説本,教養書,専門書など実に幅広い.二宮金次郎もビックリといったさまだ.

 筆者も「濫読(らんどく)をすすめる」くらいだから,例外ではなかった.「なかった」と過去形にしたのは,1年ほど前まではそうだったが,いまはやめているからだ.深い子細があってのことではない.年齢のなせるわざ,眼が遠くなったためだ.何という字かと追うだけに懸命で,何と書いてあるのか,文章として読むにはムヤミと時間がかかる.ムリに続けると,肩はこるし,頭まで痛くなる.もちろん眼鏡は持っているが,いちいち取出すのも億劫だ.どうせ通勤には小1時間,出張でも2,3時間ですむことだ.ケチケチしないで思い切ってヤメチマエと相なったしだいだ.

◇ レフレクシブに考えてみる ~日常を俯瞰(ふかん)する~

 そうは決心したものの,はじめは正直いって,情報の収集が人より少なくなり,それだけ知識の取得も減り,果ては世の中から取り残されるのではないかと心配でならなかった.ところが,しばらくしてフシギなことに気付いたのだ.

 乗り物で本を読むのをやめたからといって,眠ることにしたわけではない.車窓を流れる景色や車内の風景などを何となく眺めるのだ.そして「日ざしも秋になった」「半袖姿も少なくなった」「風の音にぞ何とかいう和歌があったな」「出だしはたしか“秋来ぬ”とだった」「そうだ,“秋来ぬと目にはさやかに見えねども”だ」「下の句は‘‘風の音にぞ驚かれぬる’’だ」「ちゃんと覚えていたぞ」「さて,作者は」……といった具合に,何にも誰にもこだわらず,ひたすら自由に思いめぐらしてゆく.時間的にも空間的にも勝手気ままにものを考える.

 「フシギだな」はこのあとでやってくる.10分か20分もたつと頭の中から日常生活が離脱し,異質な世界が生じてくる.そして平常思いもやらぬことに気付いたり,問題解決の着想を発見したりする.大げさにいえば,インスピレーションみたいなものがひらめくのだ.この「フシギだな」について,最近,ひとつの解を知ることができた.

 それは,渡部昇一氏の「クオリティ・ライフの発想」(講談社,1977)である.「毎日1時間だけ,今までやらなかった“高級な”ことをやることによって,残りの23時間のクオリティが善変するのではなかろうか」という発想から,渡部氏は1日60分の異質な時間として散歩をすすめる.

 「疲れているときでも,少し酒が入っている時でも,とにかく散歩用の靴をはいて歩き出す.15分か20分たつと体が暖まってくるし,いつの間にか頭は日常生活から離陸してくるのである.飛行磯かグライダーで地上を見下すような気持で自分の日常生活が小さく見えてくる.それはすでに異質な時間帯が頭の中に生じてきたことである」
 
 これは,筆者の車中での状態にはなはだしく似ている.渡部氏は,この「日常生活から離れた時間における頭脳状況は,アーノルド・ベネットのいう[レフレクシブ・ムード:内省的気分]にあたる」と説明する.つまり「人はいつも自分の外の風景を見,外からの音を聞く.しかし人間の心の中は,全宇宙に匹敵するほど広いのだ.自分の心の中の風景を挑め,自分の心の中の音楽を聞き,自分の心の中の討論会を傍聴してみるのである.目がさめている間,われわれの五官の刺激はすべて外から来るのであるが,外から来るものを遮断して内からわき上がってくるイメージに心をゆだねるのであるというわけだ.

 しかし,日常の仕事ではむしろ逆だ.たとえば,ある目的でレポートをまとめるとき,調べものをする,つまり,広く参考文献を読む,多くの人の意見を聞く,現場なり現物なりを見るなどをして,情報を多く取得し,これらを整理して考えてゆく.だから,日常生活での知的活動は外からの情報をできる限り利用して行なわれるわけだ.すると,渡部氏のすすめる散歩や筆者のいう車中での知的活動は,むしろ情報を遮断して行なうから,異質なものになる.
思考_01_170m.jpg
◇ インテレクトは老いない ~知識を俯瞰(ふかん)する~

 渡部氏は“知”または‘‘知的”に2種類あると指摘する.ひとつは[インテレクト]で,もうひとつは[インテリジェンス]だ.両者の差異に渡部氏は「知的生活」の著者ハマトンの比喩を引用する.「どちらも鳥の移動能力にかかわるわけであるが,ワシの羽のような感じのするのがインテレクト,それからダチョウの足の感じがするのがインテリジェンスだ」

 詳しくは渡部氏の本などにゆだねるとして,[インテリジェンス]とはふつうにいう頭のよさだ.学校では教えられたことをよく覚え,いいつけをよく守る・社会では日常の実務をテキパキと処理する.この場合,知の対象は日常的なこと,地に足がついているという感じだから「ダチョウの足」にたとえられる.

 [インテリジェンス]には「情報」という意味もあるように,「情報をえて,整理し,かんがえ,結論をだし,他の個人にそれぞれ伝達し,行動する(梅棹忠夫:「知的生産の技術」,岩波新吉1969より)」ことをうまくやるために必要な知だろう.これは社会を維持し日常生活をする上で大切であり,高く評価されるべきものだ.

 [インテレクト]は日常生活に必ずしも即しない,悪くいえば空(くう)をつかむところがあるかも知れない.だが,ゆうゆう飛翔する「ワシの羽」にたとえられ,独創的,創造的生活を可能にする.だから,[インテリジェンス]とは別な意味で評価されるべきものだ.

「インテレクトをひきだすには,受動性と,それとを組み合わさった沈黙ということが,いちばん重要な前提になる」そして,受動性を破るものが外からくる騒音だが「それが無意味であって心を乱さないようであれば,それはむしろ静寂のうち,沈黙のうちに入れてよい」と渡部氏はいう.

 「フシギだな」はかくして氷解した.四六時中[インテリジュンス]を追っかけてきたのが,まったくのはずみで[インテレクト]をひきだすことを知ったわけだ.それは「ワシの羽」はおろか「トンビの羽」にも及ばぬかも知れないが,少なくとも1日2時間足らずは頭に異質な運動を与えることになり,残りの21時間余りのクオリティを高めることになるのだ.

 しかも渡部氏は有難いことをいう.「インテリジエンスは肉体のおとろえとともに,正比例的に衰弱してくる傾向がある.一方,[インテレクト]はいくつになっても衰えず,むしろより深くなり,かつ,[インテリジェンス]の衰えをふせぐ力をもっでいる」
 かくして,筆者はわがクオリティ・ライフを身近かに発見できたしだいである.

[目]

本文書き出しの[現代人]は30年ほど前の[現代人]、[今の現代人]はさてどうでしょう。

30歳少し前、通勤の行き帰り、立ち上げたばかりの事務所を手伝ってくれていた従妹と、ホームで電車を待つ間など周りの人を観察しては失礼にも点数をつけていたものです。容姿や洋服のセンス、歩き方、目には見えない性格まで予想して点数をつけ、何故その点数かを論じます。従妹は容姿もそれなりでしたのでまだしも、私が人様の容姿やセンスに点数をつけるなど烏滸がましいことこの上ない話ですが、洋服から仕事内容や勤務先を予想してみたり、歩き方から性格を描いてみたり、なかなか楽しい時間でした。その癖は未だに抜けず、今も一人で電車に乗っての帰り道は、目についた人の仕種や表情から性格や感情を推量しては、時々笑みをこぼしてしまう怪しい人となっています。「“高級な”レフレクシブの1時間」とはいささかかけ離れた通勤時間ではあります・・・。

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育てるか育つか [味村ノート]

君子三楽_縦M.jpg
 教育という言葉は,日本では江戸時代から使われたという.
出所は孟子で,その第13巻尽心章句上の「君子の三楽」に第3の楽しみとして出ている.「得天下英才而教育之,三楽也(天下の英才を得てこれを教育するは,三の楽なり)」である.因みに,君子の楽しみの第1は父母が存命し兄弟が息災で暮すこと,第2は天にも人にも恥じる行為のないことで,天下の王となるなんぞはあずかり知らぬことだと強調している,


 こんな投書が先日の朝日新聞にあった(52年5月12日の「声」欄).
ある母親グループに「教育」という2字に,それぞれ送りがなをつけてもらったら,10人が10人「教え,育てる」とした.投書をされた方は「教え,育つ」と読むべきだとして,つぎのように主張する.
 これは言葉の遊戯などと笑ってすませることではない.「育てる」と「育つ」は厳然と区別すべき言葉だ.この根本的,天地のちがいある言葉をまったく混同しているところに現代教育の根本的誤りがあることを指摘したい.「教え,育てる」は操作主義的だ.人間が人間を操作する.これが誤りだったことを,日本人は戦後30年で忘却してしまったのか.「教師,親が教え,子どもは育つ」と読むべきだと固く信じている.

教育80.jpg 辞書を引くと「おしえそだつること」とあるから,
「教え,育てる」でもまちがいとはいえない.しかし,「誘いて善徳にすすますること」,「教えて知識を啓発せしめること」ともある.また,英語の[edu-cation]は,ドイツ語やフランス語と同じく,ラテン語の[educatio]から由来し,引き出すという意味だ.文法的な約束事はどうだろうと,本来の意味からは投書の方のいうとおりだと筆者は思う.

 教育を受ける側から見れば
「教え,育てる」は教えてもらって育ててもらうことだ.つまり,すべて人まかせ,他力本願だ.だから,子供の成績が悪いと先生のせいにする.自分に都合の悪いことは,家庭だ,社会だと他人のせいにする.そのくせ都合の良いことは自分のせいだと思うから妙なものだ.
 「教え,育つ」は,教えてはもらうが,それを元手に自分で育つことだ.出来,不出来は自分の責任だ.まちがっても先生に文句をいえたものではない.つまり,万物は自ら育つもので,それにきっかけを与え,それを引き出すために手を貸すのが教育というわけだ.

 企業内教育でも同じことだ.
「教え,育てる」式は依頼心ばかり強くする.上司から出張を命じられて「ママに相談します」という甘ったれを育てることになる.仕事でベマをやる,出来が悪いと,自分の努力不足をタナに上げて,教育が悪いからだとウソブクことになる.どう売ればよいか教育してくれなければ売りに行けない,などとモットモラシクいうセールスマンも同じたぐいだ.

教育2_80.jpg 投書の方は教師だそうだ.教育する側から謙虚にいう.「教師が子供をよい人間にする」だなんて思い上がりもはなはだしい.むしろ「子供は教範よりよっぽど良い人間である」といいたい.ルソーもエミールの中でいっている.「教育とは若木に水をやるようなもの」と.この精神に比して,現代教育は,角をためて,牛を殺すの類以外の何ものでもないめではないか.

 ひとつ教えては一歩下って,自らの力で育つ姿をじっ一と見守る.そこには教える側と教えられる側の強烈な信頼がある.それが教育だと思う.

[目]

今回の[味村ノート]、文中に52年(1979)とありますから、35年前の原稿です。大学入試センターが発足した年ですが、入試も教育もこの35年にいろいろと変遷はありましたが、残念ながら進歩があったとは思えません。しかしながら、[育つ]ことをサポートして下さる教師は昔からおられました。むしろ昔の方がおられたのかも知れません。

そんな古き恩師の中に、漢文を目にすると思い起こす先生がお二方おられます。1人は高校時代の古典の先生、あだ名も人柄もユニークな先生でした。県立ですがほぼ主(ヌシ)のような先生で、この先生のお陰で、修学旅行の前は、奈良京都に関わる古典を始めとした授業がびっしり組まれていたように記憶しています。世を斜に見ていた高校時代、入学時の担任として卒業以降もアドバイスをして下さった先生です。

もうお一方は、中学の国語の先生で1年と3年の担任でもあります。3年の担任は、「他の先生が誰も引きとらないから、オレが引き取った」そうですが、まさにご苦労をお掛けしました。私たちの学年の卒業と一緒に、高校に赴任されましたが、その後も何かとご面倒をお掛けしたように思います。

このお二方の先生を始め、小中高時代、私が[育つ]ことをサポートして下さった先生が5人おられます。その先生方の[教育]が、現在の私の考え方、自己規範、論理性など、さまざまなベースに多大な影響を及ぼしていると思います。今更ながら 深謝そして深謝です。
さて、蛇足の蛇足・・・。

   君子に三楽有り、而(しか)して天下に王たるは、与(あずか)り存(そん)せず。
   父母倶(とも)に存し、兄弟(けいてい)故無(ことな)きは、一楽なり。
   仰(あお)いで天に愧(は)ぢず、俯(ふ)して人に怍(は)ぢざるは、二楽なり。
   天下の英才を得て、これを教育するは、三楽なり。
   君子に三楽有り、而して天下に王たるは、与り存せず。

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「しつけ」と「しかけ」 別Ver. [味村ノート]

 パートで買物をして,品物を自宅に配送してもらう.届いたものが違う.そこで,デパートに文句をいう.すると,苦情処理担当の課長さん(と少なくとも印刷した名刺を持った人)がいらっしゃる.もっともらしい言訳があって「今回はまことに申しわけございません.二度と再びこのような不始末のないよう,従業員をきびしく[しつけ]ますので,何とぞ倍旧のお引立てを」ということでケリとなる.よくある話である.

 かし考えて見ると,このごあいさつは相当いい加減なものである.担当の課があるくらいだから,こんなことはしょっちゅうあるのだろう.すると,課長さんはしょっちゅう従業員をきびしく[しつけ]ていることになる.しかし,一向にキキ目がないらしい.それが証拠に相変わらず担当の課がある.どうもこの種の問題は,[しつけ]だけで解決できそうもない.

 書を見ると「しつけ」とは「仕附」と書き,本来は「したて」のことで,これが変じて礼儀作法を教え習わすこと,つまり「しこみ(仕込)」となったらしい.「[しつけ]」は,偏(へん)に身,傍(つくり)美と書き,「躾」とも書かれる.これは日本製の漢字,つまり国字らしい.いかにも日本人好みの字面である.そこで,部下の不始末を上司や客先に言訳するとき,この字を濫用し,それでお互い納得してしまうようである.

 年アメリカのある工場で,三角屋根になった端末装置を見た.形が奇妙なので聞いてみたら,上に[もの]を置けない[しかけ]にしてあるのだという.日本なら,さしづめ「上にものを置くづからず」とでも張り紙し,従業員に口やかましく[しつけ]るところだろう.置ける[しかけ]になっている限り,いくら[しつけ]ても置くやつが必ず出る.置けない[しかけ]こすれば,[しつけ]なくとも置くやつは出ない.

 うも日本人は[しつけ]を重視したがる.[しつけ]が人間様の教育に通じ,[しかけ]が動物の飼育に通じるためだろうか.しかし、[しつけ]のコスト,つまり教育費と,[しかけ]のコスト,つまり設備費とを考えると,案外[しかけ]る方が安いことになりかねない.[しつけ]たあと(実は[しつけ]たと自身で思っているだけで,相手は馬耳東風)と[しかけ]たあとの運用費まで含めると,両者のコストは[しかけ]た方にますます有利となるように思える.
image.jpg
 だから,[しつけ]はやめて[しかけ]一本槍にせよといっているのではない.[しかけ]なしの[しつけ]一辺倒ではなく,[しかけ]をべ-スにした[しつけ]こそ本当の本物だといいたいのである.

[目]

以前にご紹介した「シツケとシカケ」の別バージョンです。いずれも20年以上前の原稿ですが、昨今、この「仕付と仕掛け」について感じる場面が多々あります。何かをシステム化する目的の一つには、ミス・過失・錯誤を犯しにくいようにサポートすることがあるはずですが、逆にそれらを誘発し増大させるようなシステムによく出遭うのはなぜでしょう。


[いす]
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えと・えとせとら[続] [味村ノート]

馬年賀_赤.jpg

然し今の世の働きのあると云う人を拝見すると、
 嘘をついて人を釣る事と、先へ廻っての目玉を抜く事と、
 虚勢を張って人をおどかす事と、鎌をかけて人を陥れる事より外に何も知らない様だ。
                   漱石『吾輩は猫である』十より 
   

[目]

暮れの[えと・えとせとら]に触れてあった、30年前のお約束?通り、漱石の作品から干支にちなんだ一節を記した賀状です。今年は[甲午(きのえうま)]で[馬]にちなんだ一節が『吾輩は猫である』から引用されていました。賀状をそのままアップはできませんので、GPATalksでレイアウトしなおしてあります。ご了承ください。

それにしてもこの漱石の一節、今のご時世をそのまま言い表しているように感じるのは私だけでしょうか?


[いす]
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えと・えとせとら [味村ノート]

 旧制中学の頃,成績は甲乙丙丁でついていた.甲を電信柱,乙をあひる,丙をかばんとか兵隊,丁をかなづちとかトンカチなどといったものだ.当時の通知簿を見ると,備考に「甲ハ80点以上,乙ハ60点以上,丙ハ50点以上,丁ハ40点以上,戊ハ40点未満トス.丁戊ハ成績劣等ニツキ注意ヲ要ス」とある.
 甲乙丙丁は,その後,優良可不可となった.それぞれの字画が17画,7画,5画,4画(不可の不)で,成績が悪くなるにつれて重みが減ってゆく.偶然とはいえ,面白い.優のなかで,とくに傑出したものを秀とした.いまはABCDとするのが多く,秀はAA,またはAとするようだ.

◇ 十干は誕生・成長・繁殖・死滅

 甲乙丙丁戊は己辛庚壬癸と続き,合わせて十干(じっかん)という.本来は日を数える数詞で,古く殷の時代から使われていたという.なぜ甲から癸までの10字が選ばれ,なぜこの順序に並べられたのだろうか.「漢書律暦志」を見ると,次のように説いている(薮内清編「中国の科学」世界の名著続1巻,中央公論社,1975).
甲(コウ) 万物は甲(から)を割って出て
乙(オツ) ムクムクと軋(きし,音はアツでオツに通ず,以下同)みだし
丙(ヘイ) 雌雄が炳(あきらか・へイ)と分かれ
丁(テイ) 大そう盛(さかん,セイ)になり
戊(ボ) 楙(さかん,ボウ)に円熟し
己(キ) きちんとした紀(すじみち,キ)に収まり
庚(コウ) きわまりなく更(かわ,コウ)り
辛(シン) すっかり新(あたら,シン)しくなり
壬(ジン) 懐妊し
癸(キ) 筋道どおりに揆(おさ,キ)められる
 つまり,甲乙丙‥…は,生物が誕生し成長し成熟して,次の世代の子孫を残して死滅する過程を表わす文字の列になっているわけだ.

◇ 十二支も生物のライフサイクル

 甲乙丙‥…の十干に対して,子丑寅‥…は十二支という.これは,旧暦11月を子として,月を数えるための序数に使った字という.十干と同じく,なぜ子から亥までの12字が選ばれ,なぜこの順序に並べたかを,再び「漢書律暦志」でみると,次のようになる.
子(シ) 生物は孳(うむ,ジ)のきざしが現われ
丑(チュウ) 芽が紐(むす・チュウ)ばれて出かかり
寅(イン) 陽の気が届いて芽が引(イン)き上げられ
卯(ボウ) 茆(むっくり,ポウ)と地上に現われ
辰(シン) 振(すくすく,シン)と伸び
巳(シ) 伸長の己(きわみ,イ)に達し
午(ゴ) 敷きつめたように横に萼(おさ,ガク)えられ
未(ミ) うっそうと昧(くら,マイ)いほどに茂り
申(シン) 万物は申(しっか)とひきしまり
酉(ユウ) 実が留(な,リュウ)って熟し
戌(ジュツ) 畢(ことごと,ヒツ)く地に落ち
亥(ガイ) 万物は地中に該(すっぽり,ガイ)と収蔵される
 つまり,子丑寅……も,生物が発芽から成長,成熟,収穫を経て再び大地に戻る過程を表わしている.してみると,十干も十二支も生物のライフサイクルを使った数詞であり,農耕が主体の漢民族にとっては,ごく自然な数の称え方といえるようだ.

◇ 十二支獣

 十二支は,ネ,ウシ,トラ……と動物名でも称えられる.なぜ子がネズミで,丑がウシかなどについて,永田久氏はおおよそ次のように書いている(「暦と占いの科学」新潮選書,1682).
子は 孳(ふえ)るで,ネズミは繁殖力絶大の動物
丑は 紐(ニュー)で,牛(ニウ)と音が似る
寅は 敬してつつしむさまをいうが,トラは古代中国人が敬しておそれた動物
卯は 字形が両側に開いていて,ウサギの耳に似る
辰は 中国でさそり座のアンターレス星を指しさそり座の形がタツに似る
巳は 字形がくねくねとヘビに似る
午は 互(ゴ)と同音で,ウマは仲間を互いに呼んで群棲する
未は 中国音でウェイで,ヒツジの鳴き声に似る
申は 字形が電光を表わし,サルは電光のように手を伸ばす仕草をする
酉は 結びつきが定かでないが,トリが生活にいちばん密着した動物だからだろう
戌は 戈と斧のかたちで,草木が伐りとられ農耕が一段落したときにイヌを連れて狩に出たためだろう
亥は 字形が豕(生れたての小ブタ)に似ていて,それがさらにイノシシへと結びついた
 いささか苦しい解釈もあるようだが,古代中国人が抽象的な文字に身近かな動物を当て,具体化したことは間違いなかろう.いちばん身近かな動物としてネコがいないのは,ネズミにだまされて全員集合に間に合わなかったからだという.

◇ えとえとえと・・・

 十干を甲乙,丙丁,戊己,庚辛,壬癸と5個のペアにして,それぞれを五行の木火土金水とする.各ペアは陽陰とし,兄(え)弟(と)と書く.こうして訓読みすると語尾に「えとえと…」が並ぶ,十干十二支つまり干支を「えと」と読むいわれだろう.
十干 音読み 五行 陰陽 訓読み
コウ 陽(兄) きのえ
オツ 陰(弟) きのと
ヘイ 陽(兄) ひのえ
テイ 陰(弟) ひのと
陽(兄) つちのえ
陰(弟) つちのと
コウ 陽(兄) かのえ
シン 陰(弟) かのと
ジン 陽(兄) みずのえ
陰(弟) みずのと


◇ 六十干支

 10と12との最小公倍数は60だから,十干十二支の組合せは甲子(きのえね)から癸亥(みずのとい)まで,60干支になる.それぞれを年に割当てると,60年でもとの干支に戻る.本卦がえり,還暦というわけだ.
 60干支は西暦年数をyとして次の剰余計算で求められる.
   十干は
     y+6 (mod 10)で計算[(y+6)/10]し,余り数によって、
      0:甲・1:乙・2:丙・3:丁・4:戊・5:己・6:庚・7:辛・8:壬・9:癸
   十二支は
     y+8 (mod 12)を計算[(y+8)/12]し,余り数によって、
      0:子・1:丑・2:寅・3:卯・4:辰・5:巳・6:午・7:未・8:申・9:酉・10:戌・11:亥
 ことしは1983年だから,十干は 1983十6 (mod l0)=9 で癸,十二支は 1983+8 (mod 12)=11 で亥,つまり癸亥(みずのとい)で,60干支の最終だった.当然,来年は甲子(きのえね)で,先頭になる.


 えとの動物は,年賀状によく画かれる.友人丁氏は,年賀状にえとに因んだシエクスピアの詞華集を続けておられる.ことしは亥(boar)年で「…Unless it be a boar,and then I chase it;……」というVenus and Adonisの一節だった.筆者も女房ともどもまねさせてもらい,漱石の作品で数年来試みている.ことしは「猫」から次のくだりにした.
「あたかも主人の一夜作りの精神修養が,あくる日になると拭うがごとく奇麗に消え去って,生まれついての野猪的本領がただちに全面を暴露し来るのと一般である.こんな乱暴な髯をもっている,こんな乱暴な男が,よくまあ今まで免職にもならずに教師が勤まったものだと思うと,はじめて日本の広いことがわかる」
 あと一月ばかりで,子年になる.どの作品のどのくだりになるか,それは年が明けてのお楽しみにさせていただく.


[目]

文中に言及されている通り、今回の味村ノートは1983年の暮れに書かれた一文です。
30年前、[ARPANETのプロトコルがTCP/IPに切り替えられ、インターネットが形成され始める][東京ディズニーランド開園][任天堂がファミコンを発売][日本で初めての体外受精児が誕生]などの出来事があった年だそうです。

癸亥の一文ですから、次の癸亥の暮れにご紹介すれば収まりがよいのでしょうが、ちょっとばかり先が長すぎます。
2013年、今年の十干十二支を文中の記述に従って算出すると次のようになります。剰余数の計算が面倒ならば、エクセルMOD関数で。[=MOD(2013+6,10) : =MOD(2013+8,12)]
  十干(0:甲・1:乙・2:丙・3:丁・4:戊・5:己・6:庚・7:辛・8:壬・9:癸)は
   2013+6 (mod 10)=9 で[癸]
  十二支(0:子・1::丑・2:寅・3:卯・4:辰・5:巳・6:午・7:未・8:申・9:酉・10:戌・11:亥)は 
   2013+8 (mod 12)=5 で[巳]
今2013年は癸巳(みずのとみ)でした。従って来年は一つずつ進み甲午(きのえうま)となります。甲子から癸亥まで、今年から来年はちょうど折り返し点となるようです。 さてっ、60干支後半をどこまではしれるのか。えと180.jpg

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会議に踊る [味村ノート]

イメージ155.jpgDas gibt's einmal
 das kommt nicht wieder
 das ist zu shön um wahr zu sein!
ただ一度
  二度と来ぬ
  楽しき恋の日.


 戦中派以前の人なら,多分ご存知だろう.淀長さん流にいえば,ドイツはウーハー社の1931(イッセンキュウヒャク…と発音のこと)年度作品「会議は踊る」の主題歌である.監督や主演男優などを忘れても,主演女優がリリアン・ハーベイだったことは鮮明に覚えているにちがいない.
「会議」と「踊る」とは常識的に並べない言葉だ.これを並べたところに意外性があった.しかし「会議」と「ビジネスマン」となると,これはごく常識的に並ぶ.手帳でも開いて,会議とか打合せとか名のつくものを拾ってみればわかるだろう.

 筆者の仄聞だが,ある販売所で月に40回も会議があったという.毎日2回くらいはあったことになる.こうなると,一日中「会議に踊る」で,会議に出ることが仕事になりかねない.「いつ売りに出るのか」と聞きたくもなる.念のため申し添えるが,この会社は夜の商売をやっているわけではない.

 会議をやや順序立てて定義すれば,つぎのような話合いの一形式だろう.
   ① 進行に当たり,一定の形式,規則を守る.
   ② 各議題について多数決の原理を守る.
   ③ 能率よく決定する.

 一日が「会議に踊る」のは,このうち③と関係がありそうだ.つまり,会議が恐ろしく能率悪く行なわれるからだろう.何かにつけて効率向上のやかましいときに,会議だけがマナイタに乗らないのは片手落ちだ.しかし,会議に本来の能率さを取戻すには相当の荒療治が必要なようだ.とりあえずの手掛りとして,筆者は人数と時間の制限を提案中し上げる.「会議は10人以下,1時間以内でやるべし」である
イメージ2_120.jpg
船頭多くして

「船頭多くして船が山に上る」という.
「事を議するに異見多く,事を行なうに指揮まちまちにして,逆にあらぬ方に物事の進みゆく」ことだ.会議が能率よくゆかぬ理由のひとつは,この船頭つまり出席者が多すぎることだ.

 多くの人の意見を聴取し,民主的に事を議するためといえば,キコエはよい.しかし,人数を増せば増すほど,議題にカスカでも関係があるからとか,枯木も山の何とやらで聞くだけでよいからとかで,出席させられている連中がまじってくる.この華中にとって会議は「大家の義太夫」だ.ご意見を問われると,その場のムードに合わせて無責任に放言する.出席したからには何か一言という一言居士もいる.彼らの常套手段は,すでに誰かがいった白を黒ではないともっともらしくいい変えることだ.いずれにしろ,こんな意見を山ほど聴取しても野暮というものだ.会議に欲しいのは,その議題が生死にかかわるばかりになった連中の意見だ.そんな連中がそう多くいるわけはない.せいぜい数人どまりだろう.

 ムヤミに出席させたがるのは「オレは聞いてない」「誰に断って決めた」とあとでワメかれるのがうるさいからだろう.つまり,口封じのためだ.しかし,こんなヤツに限って会議でマトモな発言があったためしはない.感情に走るか,人情がからむか,私情をはさむか,発言に「情」という字がともなうくせに,あとで未練がましく難クセをつける情ないヤツなのだ.いくらワメこうともかまうことはない.そのうち大勢に従い静かになるものだ.

 多数決とは多数の出席者で決めることではない.多数だから正しい結論が得られるわけでもない.多数出席させたがるホンネは,ズバリいって決議に対する責任分散のためだろう.10人より20人の方が1人当たりの責任が半分で済むと思っているからだろう.責任は人数で分けられるものでも分けるものでもない.副社長を置いたから社長の責任が半分で済むものじゃない.社長としての責任は同じだ.副社長には副社長としての責任がマルマルあるのだ.会議で責任が分けられるという了見だから,会議で決まった事が行なわれないし,行なわれなくても何ともいわれないことになるのだ.
 船頭少なくして,船を的確に目的地へもって行くのが会議というものだ.
イメージ2_120.jpg
長びきて

「小田原評定」という言葉がある.辞書には「長びきて決まらざる相談」「広く衆議が一致せず物事の決定が長びくのたとえ」とある.この「長びきて」も会議の能率化を妨げるものだ.

 時間をかけで慎重審議をするといえば,これもキコエはよい.しかし,時間をかけたからうまい結論が出るとは限らない.「下手な思案は休むに似たり」である.でがらしの番茶をすすり,マグソ煙草をふかして,何時間もひとつの議題をああでもないこうでもないと議論するなどは,並の人間に土台生理的に耐えられたものじゃない.

 時間をかけても事が決しないのは,議題がおおよそつぎのどれかであるからだ.
   ① もともと解がない.
   ② どう決まろうとかまわない.
   ③ 差し迫ったことでない.
   ④ 煮詰っていない.

 ①と②は,会議に持出すことそれ自体が間違いだ.早々にお取下げ願うものだ.③は,今回の議題から外し,事が迫ってからやればよい.緊迫感のないことをいくら議論しても時間がムダになるだけだ.「事が迫らぬうちに議論せよ」というのは評論家だからいえるので,並の人間にはいえるものでない.並の人間は,むしろ「時間切れ」というごく能率的決着法を愛用する.④は,前提条件を整えて再提案して欲しい.会議を条件設定の場にしてもらってはかなわない.「どうしよう」ではなく,「こうせよ」「こうしよう」について議論するのが会議である.

 長びく会議は議題が多すぎることにもよる.10も20も議題を並べて,テレビのクイズ番組よろしく片端から快刀乱麻などは,小説にあっても現実にない話だ.並の人間が何とか扱えるのは数題がいいところだろう,

 会議に出るほかに仕事がないヤツは,会議が終われば仕事が済む.だから,マルマル一日が会議でもよかろう.しかし,ほかに仕事のある人間には,こんな連中と付合うのは迷惑だ.時間の有効活用を深更に及ぶまでエンエンと審議するなどという会議は願い下げにしてもらいたいものだ.


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もう ・ まだ ・ いま [味村ノート]

おいくつ?
 日本人のあいさつに「おいくつ?」がある.欧米人を驚かすあいさつのひとつらしい.時には,彼らをたいへんに侮辱することにもなりかねないという.つまり,彼らにとっては,これはプライバシーの侵害になるからだ.しかし,日本人には何もそんな大仰な気持からいっているわけではない.「おいくつ?」「ご結婚は?」「お子さまは?」と「ひととおり相手の立場をわきまえるのが何よりの親しさのあかしになったものと思われる」からだ(大島達彦「あいさつの民俗学」言語,56.4).

まだ〇〇歳です
 この「おいくつ?」の答に「もう〇〇歳です」と「まだ〇〇歳です」とがある.朝日新聞の「声」欄(58.4.6)に,ある方(T氏としておこう)のこんな投稿を見た.
「私くらいの年齢になると,人と会ってあいさつする時,年齢を述べあうのが日常のこととなる.言い渋ることなく年齢の上に『まだ』を置いて答えるのが私の習慣.『もう』と前置きすると老けた感じになり,心まで暗くなる.それが『まだ』とくると,なんとなく若返り,気持ちまで積極性をおぴてくるから不思議なものだ……」
まだいまもう.jpg
「もう」か「まだ」か 
 辞書で按じると「もう」は「もはや」「すでに」であり「まだ」は「いまだ」の約で「そのときに至らないで」「今なお」だ(広辞林).つまり,〇〇歳が「もう」では過去になるが「まだ」では未来になるわけだ.
「『もう』と言うと短絡には『だめだ』につながってしまう.これが『まだ』なら『大丈夫』が浮上し,不屈の精神と,ほのぼのとした希望がわいてくる」とT氏はいう.そして「なるべく『もう』を使わずに『まだ,まだ』と元気を出そう」と提唱している.

自信の「いま」
 同世代の筆者も大いに共感したいところだ.しかし,筆者は「おいくつ?」と問われると「もう」でも「まだ」でもなく「いま〇〇歳です」と答えることにしている.「もう」は,T氏もいうように,オジンくさいしネクラでいやだ.「まだ」は若やぐことは確かだが何か言い訳がましく,いささか抵抗を感じる.「いま」は「〇〇歳の真っ只中」「自信をもって〇〇歳」というわけだ.つまり,〇〇歳は過去でも未来でもなく,まぎれもなく現在だし,その現在の〇〇歳を全力投球するのがいちばんと思うからだ.それが仕事だけでなく,遊びにもであることは,いうまでもない.

[目]

「もう」「まだ」「いま」、気にもとめずに使っていましたが、「いま〇〇歳です」と言うには、現在の自分に年齢相応の自信、実績や満足感が必要かも知れません。人生のタイムラインをみれば課題山積みの私としては、「もう〇〇歳」と諦めるわけにはいかず、「まだ〇〇歳」と、残りチャンスのあることを自身に納得させている毎日です。


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日本のリズム [味村ノート]

 民謡が近ごろちょっとしたブームを呼んでいる.NHKの「民謡をあなたに」が,視聴率10%をいつも上廻っているという.レギュラーの金沢明子は,去年の春までほとんど無名に近かった.それが,持ち前の人なつっこい顔と,時折ジーンズやパンタロンで歯切れよく歌うことで,茶の間の話題をさらっている.彼女の人気は「民謡界の山口百恵」だそうだ.

◇ 七五調は4拍子
 ところで,日本の民謡を聞いて気がつくことは,そのリズムが二拍子か四拍子で,三拍子がないことだ.もっとも「五木の子守唄」は三拍子だが,これほ例外中の例外だ.
 となりの韓国では「アリラン」をはじめ三拍子が圧倒的に多い.ヨーロッパともなれば,ウィンナ・ワルツはいうまでもなく,三拍子の民謡はずいぶんとある.イギリスでは国歌も三拍子だ.ソナタの第3楽章はメヌエットだが,これも三拍子だ.

 してみると,二拍子や四拍子は日本人に格別に合うリズムなのだろうか.昔から,和歌や俳句にみる七五調,広くいえば七と五との組み合わせは口調がよいといわれてきた.民謡もその例を外れない.たとえば「佐渡おけさ」なら「佐渡へ佐渡へと 草木もなびく 佐渡は居よいか 住みよいか」で,たしかに7775になっている.

 別宮貞徳氏は「七五調は四拍子」という(「日本語のリズム」講談社現代新書488).
 「日本語は,どの音(音節)もほぼ同じ長さ(時間)で発音される.これを等時性という.…たんに字数(いいかえれば音数)を取るかぎり,五音句と七音句の時間の比は,等時性の原理によって5対7になるはずだ.しかし,実際には,間(ま)が入っている.さて,その結果はどうなるか.」

 別宮氏は三十一(みそひと)文字,つまり和歌を使って,57577が8888となることをあざやかに解く.それにならえば「佐渡おけさ」はこうなる.「佐渡へ佐渡へと‥‥」をロボットよろしく,抑揚も休止もなく,頭からずるずると「サドへサドへトクサキモナビクサドハイヨイカスミヨイカ」などとは読まない.・を1字分の間(ま)とすると「サドへ・サドへト クサキモナビク・ サドハ・イヨイカ スミヨイカ・・・」と読むだろう.7775といいながら,時間的な長さにすれば8888だ.1字分を八分音符(♪)とすれば,これはまさしく四拍子にほかならない.

4拍子.jpg


◇ 騎馬民族は3拍子 農耕民族は4拍子
「三十一字とか,57577とか,おもてにあらわれた数字ばかり人びとは気にして,それがすなわち短歌のリズムであると思っている.‥‥‥57577という数自体になんのリズムもない.短歌形式に限らない.五七調であれ七五調であれ,五音と七音を組み合わせたものはみな同じ.たしかにそこにはリズム=律動がある.それは音楽の四拍子である」と別官氏はいう.
 別宮氏の四拍子論は,ひとつの大胆な仮定を提示する.それは「騎馬(遊牧)民族は三拍子である」と想定して「日本の四拍子文化は,先祖が農耕民族だったからである」というものだ.
 乗馬で速足のとき,ただ乗っているだけでは尻を打つ.馬が跳ねたときに自分から跳ね,積極的に上下動を加える.これは歩行や地上に密着した農耕でのりズムとは違うリズムを生む.農作業は,押す引く,あげるさげる,右左という動作で行なわれるから,二拍子系のリズムにしかならない.別官氏の推測は,こうまとめられる.
 と,ここまで書いたら,めずらしく金魚売りの声が聞えた.もっともクルマとスピーカーでは,従前の情緒はカケラもない。それでも「キンギヨーェ,キソギヨー」はちゃんと四拍子だ.世の中変わっても,この日本のリズムは日本人の内在律として,どっこい生きつづけている.

[目]

本文の書き出しで「えっ?!」と思われた方、今回の味村ノートは1980年頃に某誌に掲載された一文からの転載です。ちょっと例が古いのはそのためですのでご容赦ください。しかし、80年代はクルマでとは言え、金魚売りが未だ住宅街を流していた時代だったようです。30以上年前のことですっかり忘れております。「金魚売り」以外にも、子供の頃は「風鈴」「石焼き芋」「豆腐」「納豆」・・・、売り声と共におとずれる物売りは、何となく季節感や一日のリズムを感じたものです。天気・天候や風物も、風情などすっかりなくなった最近です。

古くは「さおやーさおだけ」の「物干し売り」、最近はトラブル多発だといわれながら、未だに健在なのは、ちょっと不思議に思っています。我が家では、竹ならぬステンレス竿の購入先はDIY(Do It Yourself)、と言っても、竿を買うことは滅多にありませんが・・・。


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榻(しじ)のはしがき [味村ノート]

小町M.jpg 小野小町をめぐる伝説は,ずいぶんとある
しかし,主流は2つで,恋愛譚と栄華の果ての零落を語るものとだ.後者のひとつに,謡曲「卒都婆小町」(そとばこまち)がある.四番目物,つまり謡曲を「神・男・女・狂・鬼」と分けて,その四番目「狂」に当る.

 卒都婆に女の老乞食(シテ)が腰掛けている.高野山の僧(ワキ)が通りかかり,これを見て教化(きょうげ)しようとする.だが,仏法問答でかえって負けてしまう.僧が名を問うと「小野の小町がなれる果てにてさむらふ」と乞食は答える.いまの乞食生活を語るうちに,若い頃にこがれ死にさせた深草少将の怨念が小町にとりつき,物狂いとなり,少将百夜通いの様を演じる.

 「人目忍ぶ通路(かよいじ)の 月にも行く閻にも行く 雨の夜も風の夜も 木の葉の時雨雪探し 軒の玉水 とくとくと 行きては帰り 帰りては行き 一夜二夜三夜四夜 七夜八夜九夜 豊(十夜)の明の節会にも 逢はでぞ通ふ鶏の 時をも変へず暁の 榻(しじ)のはしがき百夜までと通ひ往(い)て 九十九夜になりたり あら苦し目まひや 胸苦しやと悲しみて 一夜を待たで死したりし」 やがて,小町は正気に戻るが,少将を死なせたことを悔いて「花を仏に手向けつつ 悟りの道に入らうよ悟の道に入らうよ」となる.

牛車600.jpg あらすじは,こんな具合だが,深草少将は百度通うために,車の榻に印をつけて,その度数を数えたというわけだ.榻とは,牛車の牛をはずしたとき,轅(ながえ)の軛(くびき),つまり牛の後頸につける横木を支える台で,乗り降りの踏み台にも使ったものだ.さしずめ,いまならクルマのエンジンカバーにマジックで「正」の字を書くといったところだろうか.これが,百にあとひとつであの世だから.浮かばれぬのも無理はない.
図はクリックで別枠拡大

 せんさく好きは世の習いだ
「一夜二夜・…・・九夜十夜」というが,五夜,六夜はなぜ休んだのか(一書には,四夜と七夜との間に「五六はあらで」とある),またこれだけで九十九夜とは勘定が合わぬというわけだ.そこまで目くじらを立てて,人の恋路を邪魔することもなかろうが,そこは遊びの精神で,榻のはしがきを勘定する連中もいるから,おもしろい.
  ◇ 「方円秘見集」(1667年)で多賀谷経貞は,
   5,6を抜いて1から10までの数字を並べ,
    1+2+3+4+7+8×9+10=99
   とする.
  ◇ 「求笑算法」で田中由真は,まず,
    1×7+2×8+3×9+4×10=90
   として,重ねことばの四(よよ),七(なな),九(ここ)を加え,5,6を引いて,
    90+4+7+9-5-6=99
   とする.
  ◇ 「勘者御伽双紙」(1743年)にも中根彦循(法舳)が同じものを書いている.
   1と10,2と9というように相対する数の横を加え,5,6を引いて,
    1×10+2×9+3×8+4×7+5×6-5-6=99
   としている.
      (高木茂男編:ミステリー・ナンバー,遊びの百科全書9)


 小町算から100作りへ
これにならい,1~9(ときには1~10,0~9,また逆順)の順序を崩さずに,間に+-×÷などを入れて,ある一定の教にすることを「小町算」といっている.

 1917年,H.E.デュードニーが「1,2,……9 の数字の間に加減乗除の記号を入れて100にせよ」という問題を出した.数字パズルで「100作り」というが,つまりは「小町算」のことだ.デュードニーの問題は,コンピュータで全解が算出されている.
  ◇ +-だけを使った解
    1+2+3-4+5+6+78+9=100  などは
   1963年に計算され,22通りある.
  ◇+-×÷を使った解
    1+234×5÷6-7-89=100  などは
   1971年,R.L.パットンにより計算され,384通りある.

 似た問題に,順序は問わず,1~9を1回ずつ使って等式を作るものがある.
  ◇ ○○○+○○○=○○○ では基本形は42通り
    和の最大のものは  324+657=981
    和の最小のものは  173+286=459 だ.
   また,
  ◇ ○×○○○○=○○○○  ○○×○○○=○○○○ では9通りで,
    積の最大のものは 4×1963=7852
    積の最小のものは 28×157=4396 だ.
      (池野信一他:数理パズル)

 デュードニーは,Amusements in Mathematics(1917)のNo.81の問題として「○○○×○○=○○×○○でその積が最大のものを見つけること」を出している(M.ガードナー著,赤摂也・冬子訳:数学ゲームⅡ,別冊サイエンス).筆者が手元のマイコソで算出してみると,11通りあり,最大のものは532×14=76×98=7448だった.因みに,最小のものは158×23=46×79=3634で,全解の所要時間は30分足らずだった.

 榻のはしがきもコンピュータで勘定しては,味もそっけもなくなる.だが,小町,少将のご両人,そこは物わかりよく「ヨロシインジャナイデスカ」といってくれるかも.

[目]

今回の味村ノートは数遊び。日没も大分早まり幾分涼しさも出てきた夜長に、数学ゲームに興じるのも和歌に親しむのもご随意に・・・。
ところで、小野小町の生誕地は秋田県湯沢市か、熊本市か、福島県小野町か、はたまた隣町の厚木市小野か、いろいろと説があるようです。美人ということで、秋田が優勢だそうですが、才媛であり美人という面では、宮崎美子、斎藤慶子を輩出した熊本も有力です。いやいや、我が義姉は厚木市小野の出身、才色兼備をいうならば、小野小町の生誕地は厚木市小野説を採る。・・我が家では・・・。


[いす]
〇 牛車の説明図は[WIKIMEDIA COMMONS]より使わせていただきました
   http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gissya.png?uselang=ja
〇 小野小町の画像は[WIKIMEDIA COMMONS]より使わせていただきました
   http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ono_no_Komachi.jpg?uselang=ja
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半分の半分で3等分 [味村ノート]

コンパス定規120.jpg角を二等分する
 いきなり幾何の話を持出して不粋かも知れぬが,定規とコソパスとを有限回使って角を2等分することは簡単にできる.ただし,定規は点を結ぶ線分を引くか,これを左右に延長するかに限って使うことにする.また,コンパスは1点を中心に,ある半径の円を描くだけに使うことにする.

 方法は先刻ご存知だろうが,念のために書くとつぎのとおりだ.まず,角の頂点ⓐを中心に適当な半径で円を描く①.つぎに,この円と両辺との交点ⓑを中心にそれぞれ再び円を描く②.あとの2円の交点ⓒと頂点とを結べば③,角は見事に真二つになる.
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では三等分
 2等分が成功するとつぎは3等分をやってみたくなるのが人情だ.まず,直角をやってみる.頂点ⓐを中心に円を描き①,両辺との交点ⓑを中心に同じ半径で再び円を描く②.ここまでは2等分のときと同様だが,こんどはあとの2円どうしの交点でなく,はじめの円との交点ⓒ(2個できる)と頂点とをそれぞれ結ぶ③.めでたく直角は3等分できる.
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解けないことが解けた
 それなら,60度ではどうだろう.こんどはうまく行かぬ.柳の下にいつもどじょうとは限らない.「任意に与えられた角を3等分すること(ⅰ)」は「与えられた立方体の2倍の体積をもつ立方体を作図すること(ⅱ)」と「与えられた円と同じ面積の正方形を作図すること(ⅲ)」とともに,ソフィストの三大難問といわれ,ギリシャの昔から2000年間も解けなかった.

 ところが,19世紀になり,はじじめの2問(ⅰ・ⅱ)はフランスの天才数学者ガロアの理論で解決された.また,最後の1問(ⅲ)も,1882年,リンデマソが解決した.ただし,どちらも「解けた」のではなく「解けない」ことが証明された.だから「角の3等分を作図せよ」といわれたら,頭のよい連中は手をつけようとしないはずだ.

そこを何とかする「コンピュータ・マン的方法」
 けれども,そこを何とかとなったら,どうするか.戸川隼人氏はいう(数値計算入門,第2版,オーム社).「頂点を中心に円を措く.角の約1/3と思われるところの円周上に印をつける.コンパスでその円弧の長さ(正確にいえば弦の長さ)を計り,その幅でもう2区間とってみる.要するに約1/3と思われる角度を3倍したわけである.それが運よくもとの角度に一致すればそれでおしまい.もし一致しなければ,余った角度についてまた同じことをやる.すなわち,その約1/3と思われる角度をとり,(前の幅に加えて*)コンパスを使ってそれを3倍し,それでも合わない部分をまた約3等分し・・‥‥,これをくり返せば余りの部分ほだんだん小さくなって,実用上は0とみなしてよいくらいになるであろう.」

 「ここで用いた手法,すなわち,だいたいの見当をつける,それを実際に試してみる,合わなかったら修正する,これを合うまでくり返すという方法は“逐次近似法”といって数値計算の基本的な考え方の一つである」と戸川氏は解説する.
3分の1_2.jpg
そして,戸川氏は角の3等分の「コソビュータ・マソ的な方法」を図示する.1/3は,二進法で0.01010101‥…・と表わせる.これは1/3=1/4+1/16+1/64+1/256+……だ.つまり,1/3は,初項が1/4で公比も1/4の無限等比級数の和になるわけだ.だから,まず角を2等分①し,その下半分をさらに2等分②する.できた四半分の上半分を再び2等分③し,その下半分をさらに2等分④する.これを何回もくり返せば,実用上角は3等分できるというわけだ.議論明快だし,半分の半分をくり返して3等分できるところが愉快だ.
btn.jpg

[目]

今回の[味村ノート]は、9月に向け酷暑疲れの頭をリフレッシュ。「角の2等分の作図」は中学時代? 「角の2等分の性質」は高校数学でしたか。いずれにしても何時習ったかは、すっかり忘れています。中・高校生時代を思いおこしながら秋に向けて体調・心調(?)・脳調(??)を整えましょう。


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余りの始末 [味村ノート]

キャンディ110.jpg
キャンディが10個ある
 これを兄弟3人で分けたらどうなるか.1人3個ずつで1個余る.算数の問題なら正解だ.しかし,実生活では余った1個をどう始末するかが問題だ.兄が権力にモノをいわせれば4,3,3だ.弟思いなら3,3,4だ.ともかく何とか始末して一件落着と相成る.

大岡政談に「3方1両損」という話がある
 昔から,余りの始末には並々ならぬ苦労があったようだ.江戸ッ子が3両落し,運よくそれを拾ったのがいて届けてくれたが,落した方はどうしても受取らぬ.「落したのだからもう俺のものじゃない,拾った方のものだ」という.拾った方も「落し主がわかったからにはテコでも受取れぬ」と突張ねる.そこで,お定まり大岡越前守に恐れながらと裁決を願う.越前守やおら考えていう.「奉行が1両出して4両とし,これを両人に2両ずつ取らせる.落した方は3両のところ2両しか戻らぬから1両損.拾った方もネコパパすれば3両のところ2両しかもらえぬから1両損.奉行も訴えがなければ何もないところ1両出したから1両損.これで3方1両損」宙に迷った3両,つまり世の中に余った3両がめでたく始末できたわけだ.

1年は正しくは365.2422日だ
 だから,365日とすると毎年0.2422日余る.4年経過すると0.2422×4=0.9688日余るから,ここで1日多くして366日とする.閏年だ.しかし,ピッタリ1日余ったのではない.1-0.9688=0.0312日足りない.400年で3.12日足りなくなる.そこで,400年に3回だけ閏年をやめる.つまり,西歴が100の倍数で頭の2ケタが4の倍数でないときは平年とする.これでも400年に0.12日余るから4000年で1日少々余る勘定だが,まず当分は大丈夫だ.古来,暦の歴史は余りの始末記といってよい.

縦横の長さが3m,4mの長方形がある 
 対角線は5mだ.ところが,1辺が1mの正方形では,対角線が1.41・‥…mで,前の長方形のようにピタリとならない.m以下に余りが生じる.そこで√2mとして,余りが目に見えないように始末する.

余り(端数)の始末には
 日常生活では,切り上げ,切り捨て,4拾5入がある.円以下の利息を切上げで始末したら,0.1円は1円となって0.9円の損,0.2円は0.8円の損というようになる.事象が等確率だとすると,
    -0.9×1/10-0.8×1/10-‥…-0.1×1/10=-4.5(円)
の期待損失となる.これを切捨てで始末すると,上の逆で,4.5円の期待利益となる.4捨5入で始末すると,0.4円までは端数分が得になるが,0.5円からは0.5円,0.4円…‥と損になる.だから,
    0.1×1/10+0.2×1/10+・・・…+0.4×1/10
      -0.5×1/10-0.4×1/10…‥-0.1×1/10=-0.05(円)
で期待損失となる.6拾7入というのがあるが,これで始末すると0.15円の期待利益となる.

 余りの始末はやっかいだ.けれども何とか始末しないと実生活で困る.余りをどう始末してきたか,それが人間の計算の歴史といえるかも知れない。
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